知り合いの話。
一人で山に登った帰り道でのこと。
いつの間にか、ブツブツと呟く声が、
後ろの繁みから聞こえてきた。
身を硬くして振り返ると、
繁みの切れ目から一匹、
猿に似たものが姿を現した。
大きさや姿形は猿そのものだが、
その顔は壮年の男のものだった。
まるで人間のように、
背中を伸ばして歩いていたという。
驚愕している彼の耳に、
それの呟きが聞こえてきた。
「…だいすけ、まさる、まさゆき、けんじ、あきら…」
猿は、男性の名前を次々に呟いていた。
うち一つが、彼の父親の名前だった。
ピクリと反応すると、
猿は呟くのを止め、
嫌な笑いを浮かべて近寄ろうとした。
「違う。それは父の名前だ」
思わず力いっぱいに否定した彼を、
猿は凄い目つきで睨みつけた。
しばし睨みあった後、
猿はぷいと繁みの中へ戻っていった。
彼は、麓まで後ろも振り返らずに駆け下りたのだそうだ。
もしもその時、
彼の名前が当てられていたら、
何が起こっていたのだろうか。
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